過ぎゆく季節を惜しむ曲(16) 秋桜
1977年の曲なんですね。すごい懐メロ。
これは歌謡曲のレジェンド的な曲です。
この曲は、様々なアーティストによってカバーされています。
作品の生みの親であるさだまさし。
小春日和の陽だまりを思わせる優しい歌。作品に入り込むというより、美しい映画を見ている感覚です。
声の美しさと歌唱力では邦楽で最高峰の柴田淳。
失うことの悲しみや寂しさを歌うならば、この人の右に出る人はいません。
この世界観にぴったり。
その他にも中森明菜や秦基博や松浦亜弥など。歌唱力が凄い人たちに度々カバーされる名曲なのですが、
この人が纏う、凛と立つ格好よさ、それこそ秋桜のような強さ。
母親と過ごす最後の日に、人間としての強さを持った人が、感情を押し殺すように普段どおりの会話をしている。
だけど、過ぎゆく時間を無理と知りながら手繰り寄せるような母親の姿に感情が溢れ出す。
そのような楽曲なのですけれど、
やはり、この場面を引き立たせるのは山口百恵の持つ強さなんですよね。
強い人が押し留めようとして、だけど溢れ出す感情。
それを描くことが出来る人って、他にいないかもしれません。
さだまさしのソングライティング能力と山口百恵の才能、個性が化学反応を起こした、奇跡的な楽曲です。
舞台設定が秋の小春日和の一日というのも美しさを際立たせています。
秋の、しかも暖かい一日。
その日は過ごしやすくて良いのだけれど、終わってしまえばあとは冷えていくしかない。
あとは冬へ一直線。
母親と娘、二人で過ごす最後の一日としては素晴らしい奇跡的な日ですけれど、
翌日以降、母親はどうやって過ごすのでしょうね。
コスモスの花言葉は「優美」「美麗」。
娘の目を通して語られる物語なのですが、もしかすると真の主人公は母親なのかもしれませんね。
目の前、小春日和の中で座って、話を聞いてくれる娘。その姿は視界の端のコスモスと重なる優美さ。
本当は心から祝福したいのだけど、夏の残り香とともに消えてしまう姿。
いったい、どうやって送り出せば良いのだろう。
笑って送り出すことは出来るだろうか。
過ぎゆく季節を惜しむ曲(15)梟
Plastic Tree「梟」
彼らの長いキャリアの中で、3人で活動をしていたのは多分この曲をリリースした辺りだけ。
先代のドラムが脱退して、新しいメンバーを探していた時期でした。
この曲は、叶わなかった想いが物凄い情念に変化した、ある意味では柴田淳と同系統の昼ドラ的な心を歌った曲です。
夜にしか飛ばない、光を知らない鳥。そんな梟に、生きるための指針を失ってしまった自分の心を例えた歌詞。
私の中でこの曲は、脱退してしまった先代ドラムへのメッセージなんじゃないかと思っているんです。
叶わなかった恋愛を描くことで、失われてしまった繋がりを同時に惜しんでいる。
君とじゃない口づけをした。
横まで見ていた小さな月。
いちばん遠いもの、ただ、想う。
っていうのは、知らない人と音を合わせても思い通りにならないもどかしさだし、
恋焦がれ、不意に笑った。
ひとりよがり。壊れた船。
という部分も、壊れてしまったバンドという名前の入れ物を嘆いているようにしか見えない。
それほどまでに、バンドメンバーが脱退するのは大きなことだったのだな、と実感します。
私としては、現ドラマーの音がとても好きなので、収まるべき場所に収まったという気がするのですけれど。
それにしても、現ドラマーはこの頃まだサポートメンバーなので、MVでは一人だけめっちゃ遠くでぼやけているのが面白いです。
顔さえ判別できない。
彼らの曲を聴く時に最も印象深いのは、ボーカルの声だと思います。
めっちゃクセがあるけれど、慣れるととても味わい深い声。
一曲でもしっかり聴いてもらえれば、その良さは伝わると思うのですが…
ボーカルの影に隠れがちですけれど、シューゲイザーを基調とした轟音ギターロックも聴きどころです。
この曲は各楽器に見所があって素晴らしいです。
Cメロ終わりの泣き叫ぶようなギターソロも好きだし、
ドラムはBメロ終わりからサビ終わりまでのフレージングが本当にかっこいい。
ライブでは、聴きどころが多いし、単純に乗れる曲だし、人気の高い曲です。
彼らの曲を聴いたことがない方は、この曲から聞いてみると良いんじゃないかな。
過ぎゆく季節を惜しむ曲(14) 変身
柴田淳「変身」
これはライブDVDの映像ですが、
柴田さんのアカペラを聞くことが出来るMVも素晴らしいです。
原曲とは違う、作品が描くぽっかりした穴を表現した素晴らしい映像。
どちらも原曲と違うアレンジなので、サブスクが使える人はぜひ原曲を聴いてみてほしいです。
淡々としたギターの音に乗って歌も淡々と流れていくのですが、
そこから微かに漏れ出す隠しきれない感情に心を掴まれます。
過去、テレビのバラエティ番組で「日本一暗い歌手」という素晴らしい称号をもらった柴田さんの実力を垣間見ることの出来る曲です。
別れた相手のことを忘れられずに、埋められない穴を自覚しながら生きるという曲。
君が育てていた花に水をやる
君が消えないように
ずっと消えないように…
こういう描写も柴田さんの特徴です。
少し大袈裟で、ある意味昼ドラっぽいところはあるけれど、でも分かる。
傍らにあった存在が消えてしまった後に残った、小さな欠片。その繋がりを僅かでも消したくないから、全身全霊をかけて残そうとする。
だからこそ、次に進むことが出来なくなってしまうのだけど。意識もエネルギーも過去にしか向かないから。
そんな救いようのない世界観だけど、メロディーは本当に美しい。
透明で、きらきらと光を反射する水晶みたい。
でも、だからこそ、そこには止まってしまった世界を外から眺めるような物悲しさがあるんですよね。
時間を止められた剥製だったり、形を保ったまま琥珀の中に閉じ込められた存在のような。
この曲に感じるのは美しい空虚。
世界は美しいけれど、そこに中身は無い。
それは時間を失った記憶であり、
何よりも大切な存在を失ってしまった後に残された世界であり。
そんな透明な世界を表現することのできる柴田さんの作詞・作曲能力、
そして何よりも歌声の美しさ。
そこに物凄い力を感じる曲です。
過ぎゆく季節を惜しむ曲(13) 壊れかけのRadio
徳永英明「壊れかけのRadio」
既に過ぎ去ってしまった季節を、捨て去ることが出来ずにずっと胸に抱いている。
そんな曲です。
黒いラジオを買った少年が、
ラジオに勇気をもらい、
ラジオに導かれるままに音楽の道を志し、
故郷を離れた遠い街で人波に紛れ、
美しい故郷の空に想いを馳せる。
そんな歌詞なのですが、
いつも傍に置いていたラジオが物語に深みを与えています。
いくつものメロディーが
いくつもの時代を作った
現在はサブスクやYouTube全盛期なので、ラジオを聴く習慣のある人はあまり居ないかもしれないのですが。
少しまでは、新しい音楽の発信源として、ラジオは多分一番手でした。
テレビは音楽シーンの表層しか映さないからね…
新しい音楽や、美しい音楽。
そういったものを発信するのは、だいたいがラジオだったのです。
何よりも、ラジオって他のことをやりながらでも聴けるのが良いのです。あの頃、視線を拘束される他のメディアではこうは行かなかった。
ラジオは、新しい世界への入り口でした。
だけど。
そのイメージとは裏腹に、ラジオって意外に耐用年数が短いのです。
メーカーのWebサイトを見ると、およそすべてのメーカーで「耐用年数5年」と書かれています。
ラジオは、5年で壊れてしまう。
翻って。
この曲におけるラジオは、
自分に新しい世界を見せてくれるものであり、
自分を導いてくれるものであり。
それは親の庇護下を離れて次に見る指針。
例えば、自分が描く夢だとか。
繰り返し歌われる、
思春期に少年から大人に変わる
という一節は、歩き出した自分を強く意識した言葉なんですよね。
自分の意思でラジオを買うような奴が、こどもであるわけが無い。
だけど、こどもの頃の夢って、だいたいの場合、そのまま持ち続けることは出来ない。
5年で壊れてしまうラジオは、思春期に見た夢を青年期でも変わらず見せてくれるわけではないのです。
飾られた行きばのない
押し寄せる人波に
本当の幸せ教えてよ
壊れかけのRadio
こどもの頃の夢を変わらずに持ち続けられるのか。
それは分かりません。
多くの場合、大小に関わらず、軌道修正を迫られるものですけれど。
13歳でラジオをを買った少年が、
18歳で親元を離れて暮らしているうちにラジオの故障に気づく。
そんなところでしょうか。
新しいラジオを買うのか、
いい加減にラジオをやめてテレビにしてしまうのか。
それは分かりませんけれど。
そういえば、実家で私が使っていたラジオ、埃を被っていたものをこの前使ってみたら、普通に使うことが出来ました。
たまに何十年も使い続けられるラジオだってあるみたいです。
徳永英明さんの透き通った歌声が胸に響く曲です。
彼の声が持つピュアさが、この曲に命を吹き込んでいるのでしょう。
他の人では、中々こういう曲にはなりません。
過ぎゆく季節を惜しむ曲(12) 若者のすべて
これもまた、象徴的な夏の終わりの曲です。
この曲に触れてしまうと、どうしても書く言葉全てが薄っぺらくなりそうで嫌なのだけど。
この曲を初めてライブで聴いたのは、2019年のロッキンジャパンでした。
というか、フジファブリックを生で聴いたのもその時が初めて。
「LIFE」とか「手紙」みたいな、これもまた象徴的な曲を演奏した後、最後の曲がこれでした。
ライブを聴くのが初めてだった自分には、この曲を山内さんの声で聴くのも初めて。
途切れた夢の続きを
とり戻したくなって
まるでその歌詞のとおりに。
そこには確かにフジファブリックが居ました。
確かに志村さんと山内さんは全然声質が違うし、あの志村さんの消えてしまいそうに儚い、まるで10月に生き残ってしまった夏の欠片みたいな一瞬の美しさは出せないけれど。
このフジファブリックはどこまでも優しい。
消えてしまいそうな夏を優しく見守る包容力を感じました。
志村さんが居なくても、彼らはフジファブリックでありつづけました。
(山内さんバージョンの「若者のすべて」)
失ったものを埋めようとするのではなくて、
失った者にしか見えない景色を描く。
それが彼らの選んだ道でした。
決して、簡単なものではないけれど。
曲に関しての話をすると、
まず印象深いのはこのイントロですよね。
弦楽器はC F C F、って繰り返しで、ドラムもシンプルな8ビート。何も難しいことをしていないのに、物凄い印象に残るイントロ。まるでさざ波が知らないうちに足元を濡らしているようなイントロです。
そしてAメロ。
真夏のピークが去った
って歌い出しもインパクトが凄いけれど、
それでも未だに街は
落ち着かないような気がしている
というこの歌詞。
夏の残滓の中、まだ浮き足立ったままの街。
これは街のスケッチというよりもむしろ、希望と不安がごちゃ混ぜになった内面を描いた心象風景。
夏も、未来を見ている人々も、ふわふわとした訳の分からないエネルギーに溢れているものです。
ここの部分は、メロディーも全部シンコペーションで入っているんですよね。
ふわふわとした前のめりなエネルギーは、耳で聴く印象からも伝わってきます。
そこからの、拍あたまから歌い出すBメロ。
ここでぎゅっと全体のイメージが締まってからは一気に感情を吐き出すサビに流れていく。
歌詞もそうなのですけれど、メロディーを使った感情表現が素晴らしい曲なんですよね。
感情を追体験しているようで、とても印象深い。
それが、この曲を名曲たらしめている理由なのではないかと思います。
誰にでもあっただろう、期待と不安が入り混じった夏。
この曲は、その時間をもう一度思い出させてくれる力を持っています。
2019年のロッキンでは、他のステージに先んじて、パークステージはフジファブリックの演奏で幕を閉じました。
最終日の大トリです。
最後の曲である「若者のすべて」が終わった瞬間、会場には花火が打ち上がりました。
それはまるで、決して失われない魂としての志村正彦に捧げるような花火で。
まだ明るい夜空を美しく彩りました。
最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな
同じ空を見上げているよ
過ぎゆく季節を惜しむ曲(11) カブトムシ
aiko「カブトムシ」
「カブトムシ」というタイトルですが、発売されたのは1999年11月。
秋、というか半分くらいは冬の曲です。
人生で好きな曲ベスト5的なものを作ったら、間違いなく最初に入れる曲。
いわゆるJ-popの、ひとつの到達点だと思っています。
流れ星ながれる 苦しくうれし胸の痛み
生涯忘れることはないでしょう
この部分に象徴されるように、この曲は、初めから消えてしまうことが分かっている感情を歌った曲。
流星群は秋の象徴。
秋って、しし座流星群に代表されるように、
一年で最も多くの流星群が見られる季節なんです。
秋になると、もう楽しいだけではない、胸の痛みに塗り潰されそうになる感情。恋愛は楽しいばかりではないんですよね。
そして、流星群は一瞬だけ輝いた後、簡単に消えてしまうものの象徴。
冬を越せないカブトムシは、秋が終われば死んでしまうことが運命付けられている。
目の前に終わりを感じながらも、まだその暖かさに縋ろうとする。
ある意味では純粋さが生み出す悲しみ、
ある意味では自分の感情にまっすぐな強さ。
その一瞬の強烈な輝きに目を奪われます。
この曲は自分をカブトムシに例えた曲。
あまりにもイメージが強すぎて、中々使うのに勇気が必要な比喩ですけれど。
これを本当に上手く使っているんですよね。
少し背の高いあなたの耳に寄せたおでこ
甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし
最も有名なこのフレーズ。
ここはもう本当に凄いですよね。
1行目からイメージされる姿は、まさに蜜を吸うカブトムシそのもの。
そして、2行目の『甘い匂いに誘われた』という言葉が本当に強い。
フェロモンに誘引されたカブトムシ。
この曲は純粋だけれど、プラトニックなだけの気持ちではない。
歌い出しの
悩んでる体が熱くて
っていうのも含めて、精神的にもフィジカルにも抗い難い衝動。
運命的にではなくて、もっと現実的に、本能的に惹きつけられてしまう。
カブトムシっていうタイトルは、そのような熱量を引っくるめて表したものです。
この比喩は本当に凄いよ。
曲のイメージを含めて、全てが透明。だけどその裏に隠された熱さ。
あと、このサビ頭に関しては、メロディーも凄いと思うんですよね。
『少し背の高いあなた』までのどんどん上昇していくメロディーは、相手を見上げる視線を追体験するようだし、
『甘い匂いに』には、降ってくる香り、フェロモンに例えられるあなたの魅力を精一杯見つめる視線、
『誘われたあたしはかぶとむし』には高まる感情が見えます。
美しいメロディーの中に、これだけの映像を詰め込むことが出来る。
aikoは物凄いメロディメーカーであり、映像監督でもあるのです。これは本当に凄い。
この曲は『花火』と同様、ほとんどピアノ+ドラム(あと目立たない弦楽器隊)という構成ですけれど、見える景色は全然違う。
花火の頃は(曲の意味から敢えてそうした面もあるけど)浮き足立っていたサウンドが、この曲では地に足がついている。
もちろん、6つ足のカブトムシのイメージを出すためにってのもあるのかもしれないけど、
この3ヶ月くらいの間に突然落ち着き払ったミュージシャン然とした音になっていて、そこにaikoのスケールの大きさを感じます。
圧倒的に、こちらのほうが好きな音。
どう見たって、デビュー1年ちょっとの感じじゃないよね。
終わってしまいそうな夏の恋心を歌った曲。
この時期になると聴きたくなる曲でもあります。夏が終わったら、冬はもうすぐそこです。
過ぎゆく季節を惜しむ曲(10) 夏の終わり
森山直太朗「夏の終わり」
この手のテーマの曲としては最もベタなやつです。だけど、ベタだからこそ、やっぱり良いものは良い。
久しぶりに聴きましたが、やはり素晴らしい曲。
もしかすると、この曲ってサビしか聴いたことないよって人も多いかもしれませんけれど。
とりあえず、1番だけでも聴いてほしいな。
1A → 1B → 1サビ の流れが神がかってるから。
この部分の歌詞を聴いていると、走馬灯みたいな夏の記憶が見えるようです。
この歌詞は、詩というよりも、とても映画的。
印象的な、色とりどりの景色に彩られた1A。
雨が降っていて空が色を無くした1B。
そして、美しい過去の色を思い返す1サビ。
場面効果のインパクトが凄い。
映像が見えるようです。
音楽的には、ニロ抜き音階+三味線というのがとても効いています。
完全に沖縄音楽。
それとは主張しないけれど、
この曲って、反戦歌なんですよね。
圧倒的な力を前にしたときの、人の夢の儚さ。
この歌詞とこの音楽が混ざり合うことで、そこにひとつの意味が生まれる。
何かを主張するとき、そのやり方を間違えると作品としてつまらない、美しくないものになってしまうけれど、
この作品はそれをスマートに成していて、素晴らしい作品になっています。
この美しさは母親譲りなのかな。
この曲はいつかの「熱闘甲子園」のテーマソングでした。
終わらない夏なんてない。夏の終わりは平等に誰しもにやってくるけれど、でもあなたは美しい。
高校生たちへの、そんなメッセージソングでもありますね。
森山直太朗を初めて見たのは、20年以上前に原宿で開催されたオリコンのイベントでした。
5人くらいが出演していたのだけど、2番目に早々と出番を終えた彼は、ひっそりと客席に混じって、ノリノリで他の演奏を聴いていました。
柴田淳だか誰かの出番の際に、いつの間にか隣に居てびびりました。
その時から、彼の印象は、「音楽好きのめっちゃ良い奴」です。
音楽好きに悪い人は居ない。
まぁそりゃそうだよね。